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やさしい屍蝋のつくりかた

江戸川乱歩・小酒井不木往復書簡集『子不語の夢』に、「屍蝋」形成についての興味深いやり取りが見られます。といっても残念ながら、乱歩からの問い合わせの手紙は残っておらず、読めるのは不木からの返事だけなのですが。

首を屍蝋化することは困難ですが脚や腕は雑作ないやうです。 水につけてから、出して乾せば丁度、ドラツグの看板位のものは出来ます。 (小酒井不木書簡 大正14年3月14日)
外部が屍蝋化しさへすればそれを取り出して、空気を抜いた罎の中にでも入れて置けば、あとは追々屍蝋化して行くから、それであなたの目的は達せられませう。 (小酒井不木書簡 大正14年3月17日)

 所々、乱歩が屍蝋を作りたがっているかのように読める表現が出て来て笑えます。
 医学知識の塊みたいな小酒井不木でも、実際に屍蝋を作成した経験はありません。しかしどうにか説得力のある回答をしようと知恵を絞っております。そこで、不木が参考文献として紹介したのが三田定則の屍蝋形成に関する論文。三田定則といえば東京帝国大学医科大学・法医学教室担任で、学生だった小酒井不木も彼の門下で勉強していました。

 さて、その論文というのが山谷徳治郎編『日新医学』第六巻(大正6年・日新医学社)に掲載された「屍蝋ノ形成ニ関スル疑義ニ就キテ」(東京帝国大学医科大学助教授 医学博士 三田定則述)というヤツです。この論文からの引用箇所で、翻刻途中で読めない字があったので「?」をつけておいたら、皓星社の佐藤健太さんが校閲のために東大の図書館まで出向いて確認して下さいました。ちなみに資料手配のお手伝いをして下さったのは玉川知花さん。お二人には厚く御礼申し上げます。
 そんなわけで今、論文のコピーを読んでいるわけですが、非常に読みづらくて難儀しています。仮名部分が全部カタカナである上、例えば「グリセリン」は「虞里設林」、「アンモニア」は「安母尼亜」と、今までお目にかかったことのない当て字が使われており、薬品名が並ぶと殆ど経典でも読んでいる気分。
 
 三田の行った実験ですが、「余ノ用ヰタル材料ハ、人間ノ初生児屍ニシテ、之ヨリ左右上下両肢ヲ肩胛関節ト髀臼関節トニ於テ離断シ、或ル場合ニハ其儘、他ノ場合ニハ軟部組織ヲ注意シテ骨ヨリ剥離シテ、試験用ニ供セリ」とあります。あんまり楽しそうではないですな。
 実験の目的は要するに、屍蝋は死体そのものの脂肪から生じるという説や、死体の蛋白質が変性して出来た脂肪酸から生じるという説など色々あってわけがわからんから、厳密な実験で実際のところを証明してやろうじゃないか、というところにあります。それで死体を流水に漬けるにしても素焼きの筒などを用意して、水だけが通って流れ出る仕掛けを作ったり、色々と工夫しています。
 さらに工夫するだけでなく、実験方法そのものに関する検証も細かい。死体中の脂肪酸と屍蝋中の脂肪酸の増減を調査する実験なので、素焼きの筒を使った実験器具で死体から脂肪酸が流れ出てしまった場合を想定し、まず別の実験によって脂肪酸流出という事態が生じないことを証明してから主たる実験に入る、といった具合。見る人が見れば「そりゃ当たり前の手続きだろ」という感想なのでしょうが、普段、ご都合主義的な資料の引用方法ばかり考えている私は、この「科学的」な姿勢に激しく心を揺さぶられました(笑)。

 ただ、この論文本来の価値と、乱歩不木の思惑は少し違うところにあるわけで。彼等が知りたい・伝えたいと思っているのは屍蝋化する物質の「出自」とかではなく、どういう風にすれば、どんな屍蝋になるのか、という一点。そして引用者・不木も謝っていますが、その点について三田論文は大した答えになっておりませんでした。とにかく脂肪酸の話ばっかりです。

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